takashisatoのここだけの話

仕事のことをたまに、普段考えるいろいろなこととか、近所の勝どきとか豊洲の話も

シリアルアントレプレナーとして自分が今までやってきたことをふりかえる (その4 33歳ぐらいのころ)

前回からの続きです。第四回。以前の回を読まれていないかたはこちらから。

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2004年秋ソフトバンクがボーダーフォンを買収。彼らがヤフーとの融合施策を中心にして展開し、それを契機としてモバイル業界とPCネット業界の融合が加速しました。
 
それでも着うたフルに代表されるコンテンツビジネスの頂点にあった公式メニューのいわゆる「管理されたインターネット」に外部から自由なインターネットをもたらす各種仕組みを通信キャリア自らが導入するのは少し先だろうと思い込んでいました。定額制ケータイが導入されて、コンテンツビジネスの市場規模が踊り場に差し掛かるタイミングなのではないかと甘く見ていました。
 
なので、そうした見方を自ら破壊者となって変えていく当時のKDDIは勢いがあったわけですし、その後GREEとの資本業務提携に進むのでした。それは2006年秋のナンバーポータビリティ導入を控え、攻めの彼らのスタンスだったわけです。
 
とはいえ、今度はここが契機となったのかよく知りませんが(?)imodeがiMENU内で外部検索エンジン向けにメニューを解放に踏み切りました。当時のiMENUの構成は外野から見ていて利権の固まりみたいなイメージがあったので、これはこれでまたすごいことになってきたと思いました。
 
時は2006年5月のNILS札幌2日目。5年ぶりのすすきので前日飲み過ぎて寝ぼけながらカンファレンス会場に行くと、朝刊トップに「DoCoMo 外部検索エンジンを解放」という趣旨の記事が載った日経を血相を変えた尾下さんが持ってきました。当時はDoCoMo向けサービスをほとんど展開していなかった状況ではありましたがその場で担当責任者を血眼で探そうということなり2週間で契約にこぎつけギリギリセーフ。自分の個人の携帯もKDDIからDoCoMoに切り替え、imodeのユーザーを一気に拡大してユーザーを増やしていく戦略を突き進めることになりました。
 
そしてさらに事態は動きます。月末にある方を通じて一通のメールが届きました。
 
それはとある中国のモバイル検索エンジンの案内でした。ほぼ日本語化が対応して日本市場への参入を今かと待ち構えていたときでした。googleに続き、新たな黒船来襲かと思いましたが、聞くと日本法人の代表はIさんという方がやっているとのことでした。
 
おやっと思ったのはほかでもありません。Iさんは、2003年の創業当時間借りしていた私の隣の部屋でとあるプライベートファンドの運用をしていた方だったのです。
 
ほかにも偶然が重なったため、これまでの人生経験のカンから、彼に言われるがまま、彼らの開発拠点がある北京の中関村に出かけることになりました。31歳にして初の中国です。
 
何より衝撃的だったのは、当時の北京の都市の勢いや、紹介してもらった何名かの中国の勝手サイトの起業家の熱意と(自分たちの世代とよく似ていた)、彼らの開発力でした。このまま東京で(悪く言えば)職人的にマイペースでやっていては、今回の検索エンジンの件に関わらず、いずれ海外のプレイヤーと戦える力を持たないと、事業成長が止まると実感しました。
 
一方で、google以外にもこの分野にガチンコで戦う会社がいることに勇気付けられ、まだまだ戦えるとの確信を持ちました。
 
そして気を取り直して国内に戻り再び事業推進に邁進することにしました。同時期にこのタイミングで出向で来てもらっていた尾下さんに、頭を下げて転籍してもらいました。
 
それ以外にも自分を奮い立たせる事象はありました。
 
例えば、あるときを境にトップページ以外から、大量のユニークユーザーがやってきていることに気がつきました。実際google検索結果に掲載されていた当社のサイトがSEO効果によって大量にユーザーがもたらされたわけでしたが、副次効果でDoCoMoユーザーの獲得が一気に進むことになったのはなぜか皮肉でした。検索エンジンに他社の検索エンジンの結果がのるぐらい当時のgoogleのモバイル検索エンジンアルゴリズムはたいしたことはなかったのです。
 
というわけで、その後は、検索エンジン・ポータル事業を中核に、数十サイトの公式課金コンテンツ事業と、自社メディアを中心に、数十億の広告を配信するアドネットワークを構築し、自社メディア広告・他社メディア広告(ad platform)・自社課金と事業ポートフォリオを多角化していきました。ブログを書いていた縁で本まで出させていただきました。
 
そこそこ国内事業者の中で大手にのしあがったところだったのですが、それでも時間がたつにつれ、googleのパワーには勝てず専門検索サービスとして検索事業をマネタイズ化し、コンテンツ事業事業拡大の中で次の一手を模索する流れになってきました。一方で後ろからやってきたモバイルSNSが強力な吸引力となって勝手サイトのトラフィックを巻き込むようになりました。
 
別の問題も起こりました。2007年秋に起こったフィルタリング問題です。かねてからモバイルインターネットの庶民性に着目していた自分としては、社会的影響力が大きい我々の業界はいつしか政策的な規制が入る予感がありましたが「今なのか、、、」という感じでした。当時規制の直撃を受けたのは、我々ではなくSNSでしたが、勝手サイトへのアクセスがいつ全面的に規制されてもおかしくない状況になりました。
 
このような過程の中で、このままではユーザー拡大が止まり事業停滞が起こると考えるようになりました。
 
そんな中、2008年に入り3Gが立ち上がろうとしていた中国にこのタイミングで現地パートナーと協業して展開出来れば、事業成長に限界が見えていた会社全体にとって新たなフロンティアになるのではないかと考えました。
 
そんな最中リーマンショックも発生。それをものともせず上場したグリーは凄かったわけですが、中国への出張で何度も成田から搭乗したANA767型機の乗員が自分含めて数人しかいなかったのを見て、これからどうなるのだろうと思ったこともありました。それでも社長から会長になり自ら海外赴任することにしました。33歳で代表取締役会長とは実に変な響きでした。
 
そんな中、経営の進め方の認識の違いから、創業者兼大株主として会社に対して責務をこのまま果たしていけるのか次第に思い悩むようになりました。
 
会社の売却も考えましたが、他の経営陣が自分たちで突き進みたいとの思いもありました。数年間にわたり困難を乗り越え一緒に会社を前に進めてきた仲間として彼らを尊重したいと思ったのと、会社を取り巻くすべてのステークホルダーの方々にとって「総合的」に最もよい決断をということで、自分が身を引くことにしました。
 
しかし退任するにあたり、過去に資金調達したことが問題とされ、内外のさまざまな方々にご心配をおかけすることになりました。そもそもの資本政策の進め方や、投資契約を締結して調達した外部資本のもつ責務や重みなど、もろもろ個人的にはとても勉強になりました。この過程で悩んでいるときに当時付きあっていた彼女の前で泣いたこともありました。数年後そんな自分についてきてくれた彼女と結婚しました。
 
その後2010年秋に代表取締役会長を退任、1年後にエフルートは上場企業のアクセルマークと合併し、静かに解散会社となりました。最後の取締役会がおわったのち尾下さんから電話がかかってきて、中野坂上のとある居酒屋で夜中まで飲んで昔話をしました。(つづく)
 
追伸 その5を書きました。

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